『犬も歩けば棒に当たる』 ~辺りを見回してみよう!面白いことがいっぱいあるぞ!~

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カテゴリ:歴史の証人( 9 )


2007年 04月 29日

歴史的事実に対する後世の安直な改造は認められるべきか?

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 先週岡山へ出向いた折、岡山城へ足を運び復興天守閣を初めて見た。 復興天守を見たのはこれが初めてであったが、見ていて妙に引っかかるものを抱いたまま帰宅した。
 この引っかかりを少し引っ張り出していろいろと調べてみると、次のようなことが分かった。
 本来、この天守の入り口はこの写真のように石垣の中にはなく、左横に復元されている塩倉からしか入ることが出来なかったのを、鉄筋コンクリートにて天守を復興するときに、見学者が登閣する時の便を考慮して石垣を取り除き(正しくは破壊して)ここに入り口を新たに創ったのだそうだ。 実にもっともらしく!
 下の写真は岡山市のHPからのものを部分引用したものであるが、ここでははっきりと石垣に入り口がないのである。
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 このような安直な復元が現在日本国中で大手を振って横行しているのは何故なのだろうか。 外見だけの、見てくれだけが出来ていれば、本質の部分は多少の作為的な変更は許されるはずだと! ここには、運営的な経営的な側面のみが優先して、本質の部分が不問に付されているのはいかにも良心のかけらすら感じることの出来ない軽薄な営利行為ではあるまいか。 市民、県民の姿が全く見えないのである。 ここにあるのは、 日本の文化、日本の歴史的本質には目をつむった目を背けたくなるような浅ましき行為ではないのか、と糾弾せざるをえない。 岡山市や岡山県の文化行政とはこの程度のものであったのか? 不幸にして巻き込まれなかった市民にとって、この天守は決して誇りにはならないどころか、実に恥ずかしさの象徴でしかないのでは。
 
 今日、NHKでポーランドのワルシャワの戦後復興を取り上げた特集番組があった。 いかに民族とその歴史を後世に伝えなければならないのか、を彼等は自問自答しながら実に長い年月をかけ石を一つ一つ積み上げて元の旧市街を再現させたのである。 その都度、多くの人の善意と熱意が目を見張るような光景を再びとりもどさせたのである。
 木の文化を誇る日本の復興には石の文化とは違う極めて難しい問題が実に高く横たわるのであるが、伊賀上野城の天守閣は実にある先人の熱意に基づき木造が貫かれ見事に後世への遺産として現在我々は接することが出来ることを決して見逃してはならない。 薬師寺の伽藍は寺僧の気が遠くなるような熱意が人々を動かした結果であることを振り返ってみよう。 東大寺の重源上人像のお顔に刻まれている皺の意味は実に重いことに気が付く。

【PS】 むかし、日本ポーランド協会からの要請で、ワルシャワ大学の留学生を京都に案内したことがある。 彼女は胸を張ってワルシャワの復興を語った。 いかに過去を未来へと繋ぐかという壮大な取り組みが実に眩しかったし、羨ましかった。 そして、ポーランドはその誇りを見事に取り戻したのである。 実に数知れない、名も無き市民の無数の手によって! そこで造り上げられたのは物ではなかった、一人一人の胸に築かれた目には見ることの出来ない誇りであったのだ!
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by usasho | 2007-04-29 00:05 | 歴史の証人
2007年 04月 22日

岡山禁酒会館

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 岡山市内を歩いていてこんな建物に出合った。
 この建物は禁酒運動家の成瀬才吉、河本正二、綱島長次郎により禁酒運動の拠点として大正十二年現在地に完成。 禁酒運動のシンボル的な存在 として、現在においても尚、異彩を放ち続けている「禁酒会館」という建築である。
 岡山城西の丸の西隣に面して建つこのエキゾチックな建物は、大正時代に全国で盛んになった禁酒運動の中でも傑出した位置を示す記念碑的な建造物であり、先の激しかった岡山大空襲をも免れて現在にまで生き残った。 その後幾多の星霜を経て現在に至ったわけであるが、文字通り人々の善意の積み重なった上でこれからも歴史の新しい頁を押し広げようとしている。
 禁酒運動というと既に遙か昔のことのように思っていたけれど、いろいろなサイトを閲読してこの運動に纏わるいろいろなことを知り得ました。

【PS】 紹介した「禁酒会館」はじつは岡山城西の丸の旧藩主隠居処が内山下小学校に変わり、その石垣の直ぐ西隣に新たな理想を追い求める者達が集う館として築かれたのだった。 会館が完成したときは、さぞかしモダンな建物として数奇な眼をいやが上にも集めたことであろう。 両親が、とりわけ大正のこの時代に当地にて青春をおくった母も市電がとおるこの道からこの会館を眺めてさぞかし心躍らせたのであろう。 早くから大阪へ出た父はもしかするとこの建物に対しての記憶はないかもしれない。
 私達一族がこの近くの内山下の屋敷から出て新しい時代の波頭にもてあそばれることになると同時に、新しい息吹の活動の場が入れ違いにこの地に花開かせたのだと思うと歴史とは本当に面白い。
 つい先ほどまで、本当に久しぶりにお城へ上がって(この表現が両親の口癖であった)創建以来の月見櫓(重要文化財)に登り、この手で触れてその内外を眺めていると、先祖が手を触れたことのある建物に触れ、眺めたであろう景色を見ている自分が実に不思議な存在に感じたところだったので、禁酒会館を初めて眺めたときには思わず立ち尽くしてしまったのだった。
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(岡山城本丸月見櫓)
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by usasho | 2007-04-22 20:27 | 歴史の証人
2007年 02月 11日

瞑目の証

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 人類の歴史を辿ると、古今東西を問わず、大きな歴史的転換点においては、ほぼ同じような作業が繰り返し黙々と行われていることに気付く。

 真っ向から激突する相反する意見のグループがその雌雄を決するとき、動かぬ人の骸(ムクロ)の山が出来てしまう。 そして、それらを地上から始末してしまうために大きな穴が掘られ、この奈落に突き落とされた声なき人々を労うためにちっぽけな石が勝利の証として置かれるのを常とする。
 ここ、大坂(注:明治まではこう書いた、為念)においても今から四百年前に此処に大きな穴が掘られ小さな地蔵が据えられた。 (他にも数え切れないくらいの穴が黙々と掘られ、そこかしこの寺院からかっぱらわれてきた地蔵がその上に据えられたことであろう。)

 時移り、ここにビルが聳えることとなり、改めてこの地蔵が発見され、此処に歴史の証人を呼び戻すことになったのだ。 しかし、此処に佇んでも、当時を思い起こさせるものはほんの僅かしか見出せなくなり、地獄の戦場において露と消えにし彼等の不運はこの小さな祠の中に閉じこめられてしまったのである。

 現在も世界各地で新たな穴が数知れず掘られつつある。 一方で計り知れない涙と追憶がうずたかく積み上げられようとも、地上の至る所で新たな作業の手が休まりそうな気配はない。 また、日本においても、このような穴がこれから先掘られることが無い、という保証もまた全く見当たらない。

 問う! 瞑目の証はどのような方法で後世において贖われたのであろうか?

【PS】 この写真の場所から東へ何キロか行くともう一つの、こんどは大きな石の塚がある。 今から百四十年ほど前に掘られた穴の上に立つ勝者の証である。 薩長により攻め立てられ無念の敗北を喫した幕府軍の後始末をしたことがそこには記されているのだが、勝者としての徳川軍と敗れし者としての幕府軍が音もなくひっそりと街角に佇む前を、今、多くの人々が明るく華やいだ声をこだまさせつつ歩いている。 春にはまだ少し早いけれど、柔らかな日差しが辺りに降り注ぎ、頬を優しく春風が撫でてゆく。
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by usasho | 2007-02-11 11:42 | 歴史の証人
2006年 07月 30日

今でも静かに並び続ける旧陸軍兵卒達

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 ここは大阪真田山にある陸軍墓地。 真田幸村が奮戦した真田丸が在ったと言われる宰相山の西に接してこの墓地は人知れず佇み続けている。 墓碑を読んでいくと日清日露の両戦役の戦死者が多く見られる。 極めて小振りなこの墓碑の多くは崩壊の危機が迫っているものもあり、細々と有志により維持と管理が行われている。 訪れる人も少ないこの墓地は、地区では桜(陸軍の象徴としての桜)の隠れた名所として有名らしく、桜の木が多い。 夏だから蝉時雨が凄いだろうなと思ったが、今日は意外と深閑としていた。
 戦後60年を経て日本の軍隊の記憶は靖国問題を始めとした一部のセンセイショナルな報道が跋扈しているが、かつては総ての国民を巻き込んだ近代日本最大の組織の具体的な姿を科学的に究明する作業がおくれていることは極めて遺憾な現実である。 政治性とイデオロギーの狭間で多くの研究者を悩ませたこの作業は避けて通るべきではなく、やはり急いで構築すべきものであろう。 真摯な若い研究者がこの作業グループをフォーラムとして立ち上げたことは本当に喜ばしいことだ。 しかし、ここまで来るのに60年を要したことも記憶しておく必要がある。

【PS】 電車に乗っていても、街を歩いていてもあちこちに祭りの提灯や横断幕が目に付く時節になった。 なぜか祭礼の声を聞くと、良い年をしていても子供の時を思い出し浮き浮きするものがある。 書斎でこれを書いていると、近くの神社からたどたどしい太鼓の響きが聞こえてくる。 夜は大人達が騒ぐため大人のいない昼間に子供達が見よう見まねで叩いているのだ。 調子外れな音だけどこの方がかえって愛嬌があって面白く、神様もきっとご満足であろう。
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by usasho | 2006-07-30 12:09 | 歴史の証人
2006年 05月 13日

BARROW STEEL 1897 ―町の片隅で―

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 日本国有鉄道の流れを汲むJRの古い駅には古いレールが建築用鋼材として鉄骨に流用されている様子を数多く見ることができる(旧国鉄以外にも古い私鉄の駅を探すとここにも多く発見することが可能だ)。 (細かに探せば鉄道以外にもさまざまな用途があったことが知られている。)
 写真のものは、大坂環状線、玉造駅のホームにあるもので“BARROW STEEL 1897”と読むことが出来る。 イギリス製(BARROW STEEL) で1897年(明治30年)に製造されたものであることが分かる。 この年(1897年)に日本はやっと官営八幡製鉄所が設立され(操業はさらに4年後になる)、7年後(1904年)には日露戦争に突入し、9年後(1906年)に鉄道国有化―日本国有鉄道―に辿り着くのである。
 写真のレールがいかなる経緯でこの場所にたどり着いたかは不明であるが、新品の鉄道用レールであれ、使い古された古鋼材としてであれ、日本に辿り着いて、ある年この駅の建築用鉄骨としてこの位置に納まり、現在に至ったのだ。
 目を凝らしてあたりを見回してみると、意外と身近にはいろいろな面白いものがあるゾ。

【PS】 内が包丁の切れが悪いと嘆く。 いままで待たせてあったものだから、仕方なく今日は夜に包丁を研いだ。 私は普通は家人が寝静まるか、不在の折りにしか刃物を研がない―誤解を解くために(?)言っておくが、あくまでも神経を集中させるためにそうするのであって、特に他意はない。しかし、第三者として客観的にみれば、あまり見ていてそれが気持ちが良いものだとは言えないということにかんしてはそれなりに理解はできる―。 集中して研いだものと、よい加減に研いだものとは切っている時の刃の通りが指に伝わる時の感覚が異なるという理由からだ。 だから、急げば急ぐ程うまく研げない。 夕食に間に合わすために、結局妥協を図った。 やはり、どうも言葉にならない忌々しさが拭いきれない。 心の乱れというものが鉄には伝わるのだと思うと、溜息が出てならなかった。
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by usasho | 2006-05-13 22:06 | 歴史の証人
2006年 04月 29日

ちりぬべき 時知りてこそ

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 ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
とは細川忠興室のガラシャ夫人が関ヶ原の戦いで石田軍に屋敷が包囲され人質になるのを嫌い、家来の手により死ぬ道を選びその折りに詠んだ辞世の句だそうである。 細川家の屋敷跡である今の越中町の元の台所にあったと伝えられている井戸(史跡、越中の井)のそばにこの碑は佇む。 徳富蘇峰の筆になる碑の文面と、この反対側にある新村出の解説がある。
 素直に詠めば、武家の女房の鏡であり、あっぱれな散り際の鮮やかさを際だたせるような一首ではあるが、これが明治を起点とした近代日本の中で再び脚光を当てられたということに正直重いものを感じてしまう。
 近代国家以前の段階のみをみたならば、これはごく普通の武家の行為であったと思われるし、武家であれば当然このような行為に及ぶことは自然な選択でもあり、感想でもあったはずである。
 明治以降にこのような概念を再出してくるところに明治期の日本の特質の深部を覗くことができるのではないか。

【PS】 甚だしく不純な感想かも知れないが、敵軍に包囲され、燃え盛る屋敷の中からこの辞世の句がどのようにして外部に持ち出され後生に伝わったのだろうかといつも思ってしまう。 身を挺してこの句を持ち出した忠義な家来衆が常にこの持ち出しに成功するのだろうかと、いつもこの点に思いが至る。 むかしから、壮絶な死をもって後世に伝わる辞世の句に接する時、このような妄想に駆られてしまうのは己の不純な心の表れなのだろうか。 歴史の現場に佇むとふとそんなことを考えてしまいます。

【PS2】 昨夜、寝る時にふと思った。 ガラシャ夫人(お玉さん)はその死の直前に父明智光秀のことが心をよぎったのではあるまいか、それとも母とともに暮らした良き日ことが思い出されたのであろうか。 はたまた、夫細川忠興のことが気に掛かったのであろうかと…。

【PS3】 しかし、日本に巣くう多くの指導者の諸君にこの句を煎じて飲ませてやりたいですね。 小泉総理は散り時を自覚されたようですが、多くの魑魅魍魎よろしく薄暗い部屋の中でうごめいておいでの方々にはこれを飲んで悟って欲しいものですが…。
 
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by usasho | 2006-04-29 20:05 | 歴史の証人
2006年 04月 25日

神様のお家

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 アニメ『千と千尋の神隠し』の冒頭でチラッと現れて千尋が母親に「あれはなあに」と聞くと、母は「神様のお家よ」と答える場面がある。 ここ、岡山県の倉敷市、どちらかといえば旧の吉備郡庄村下庄にはこのような“神様のお家”が今でも祀られている。 この辺りは多くは真言宗の高野山派の信徒が多い地域である。 多くの祠は総て丁寧に祀られて連綿と今に息づいているのだ。
 この写真の祠のいわれは、できものの神様のお住いだそうで、人家と離れた川の畔の道ばたの立木の下に祀られている。位置は木の南側。(以前は北側に、道に面して北向きに置かれていた。従って、今は木を挟んで道の反対側、南向きにある。)
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 この祠は水の神を祀ったもので、同派寺院の入り口の井戸の辺に祀られている。位置は北向き。
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 この祠は、近くの民家の庭にある屋敷神の祠で三つの祠が東向きに二軒、南向けに一軒がその庭の中に祀られている。

 これらの祠は、ある一定の精神的世界を地域全体で共有することで、それぞれの祠の社会的地位が形成され、地域の一定の社会的行為に一定の意味が付与される。 そのために、これらの祠の製作が一定の社会的需要を持つと共に、この精神的世界の共有によって特徴づけられた生きた社会的規範は地域の構成員によって生きた社会的行為として、その歴史的世界において現象することになる。

【PS】 今日聞いた話だが、鯉が川が溢れてきて田んぼの中に流れ込んでしまうことがあったが、鯉は元の川に帰るためには畦の上に飛び上がり元の川の方に向かって飛び跳ねなければならないということを理解しているのだそうだ。 命がけのこの行為は時として不幸な結末も用意されているようだが、おおむね鯉は元の川へと辿り着くという。 鯉に限らず動物の知恵だといって、彼等を決してあなどってはならないと教えられた。 
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by usasho | 2006-04-25 22:10 | 歴史の証人
2006年 02月 26日

時の彼方から太鼓とお囃子の音が聞こえる

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 昨日、奈良県橿原市の八木を訪れた帰りに耳成山に登った。 帰りに中腹にある山口神社を訪れた。 絵馬がたくさん懸かっていた中に、正面にあったこの絵馬が気になった。 時代を経ているようで、顔料が褪せて画像が極めて不鮮明になっている。 この場合斜めからフラッシュを焚いてやると顔料と板の部分にうまく光が回っていくらか絵が浮き出てくる場合があるのだ。 家で画像処理をしてみると、いくらかはやはり絵が浮き出てきた。 社殿の前で多くの人が太鼓をたたいたりして踊っている。 その周りを旅装束とおぼしき何人かのひとびとが取り囲んで楽しんでいる。 中には子供連れの旅人が居る(絵をクリックすると、さらにいくらかは拡大します)。 この辺りは東に道を取ると伊勢に通じる。
 気になるのが制作年代である。 右上の方に年号が入っているのだが○○元年であることと、その年が酉年であることが分かる。 上記の条件に合致する年代を調べてみると十九世紀まででゆけば、享和元年(1801年)と文久元年(1861年)が該当する。 ちなみに、文久元年は皇女和宮事件の年であり、その前年は安政の大獄の頂点としての桜田門外の変が起きた。 享和元年はとくに大事件はないが幕藩体制の軋みが少しずつ目立ち始め、農村問題が表面に露呈し始め、外国船の出没が激しくなりだした。 次の年に『東海道中膝栗毛』が出版されてもいる。
 いずれにしても、専門の領域ではないので解説は慎まねばならないが、本当に気になる絵馬である。 これだけではなく、道ばたに佇む石造物や地域のさまざまな遺産からは、この僅かな小口群からの小道が当時の農村復元(質と量と差異、これらに基づく諸構造)への豊かな道へと辿ることができるのではないだろうか。 そんな想いで、この絵馬を眺めていた。

【PS】 このように随所に見うけられ、かつそのほとんどが長年の風雪に耐えた絵馬は極めて表面が不鮮明になっている場合が多い。 しかし、その中に秘められた情報は極めて貴重なものであるが、物が大きく、かつ、同様な物が全国至る所に存在し、絵そのものの芸術性はあまり目を引く物ではないために、保管と情報の結集には極めて難しいものがある。 しかし、全国を一括してその存在を見る時、含まれる情報の質の貴重さと、各地域相互の情報の連続性には驚かざるを得ず、何らかの対策を立てる必要があるのだが。 (それは、このような地域の歴史遺産を造った人間の行動の根底にある共通項こそを問うことができるからなのだと言えよう。)
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by usasho | 2006-02-26 15:03 | 歴史の証人
2006年 02月 15日

歴史を担った貨幣

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 左の貨幣は旧東ドイツの10プェニッヒ、右の貨幣は日本の敗戦時にアメリカ軍が進駐地神戸の駐留地内の軍事用の10セントです。
 東ドイツのものは甥が旅行に行ったお土産としてもたらされ、米軍キャンプのものは亡父から譲られたものである。
 共にその流通した母国であるドイツと日本は、さきの敗戦からのさまざまな怒濤の如き重き歴史を持ち、その一齣を彩った彼等を見ていると、彼等の時代とその前史とが合わさってさまざまな出来事を思い起こさせてくれた。 ちなみに東ドイツの貨幣はアルミでできており、米軍のものは真鍮地にメッキを施したものである。 社会主義を標榜した東ドイツらしいデザインと、素っ気ない米軍のコインからなにかを引き出そうなぞと大見得を切るつもりはさらさらない。 ただ、彼等が歴史の舞台から姿を消してそれぞれ15年と60年近くが過ぎた。 廃墟の跡にも時と共に草は生えてくる。 時代の流れは近視眼的な人間の考えを質してくれるものだ。 曇り無き眼こそが真実の扉を開くのである。 語るべきは真実の全貌でなくてはならない。 踊っているつもりであっても、決して踊らされることのないようにしたい。

【PS】 むかし、東京でソビエト連邦の国章の鎌と槌を“鎌トンカチ”という軽妙な表現で皮肉を内に潜り込ませた奴がいたし、社会主義経済学や、マルクス主義も“黄昏学派”なぞと悪口を言う輩にも出会い、軽薄な、と腹も立ったが、反面、ある側面を照らした実にうまいことを云うなと感心もしたことをもついでに思い出した。  
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by usasho | 2006-02-15 23:08 | 歴史の証人