『犬も歩けば棒に当たる』 ~辺りを見回してみよう!面白いことがいっぱいあるぞ!~

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カテゴリ:自然( 20 )


2007年 09月 15日

木々の踊り

 十三峠へ登る道には何カ所か木々が生い茂って昼なお暗い処がある。 それでも夏にはまだ7時前であれば何とか歩いて歩けないことは無いのだけれど、さすが9月も半ばを過ぎる頃には急に日が短くなり、5時でも多少足許が覚束ないことがある。 ましてや、現在、台風が東シナ海を北上中のため、今朝から雲が走って頃合いがつかめず、ぐずぐずと決めかねていたために今日は登り始めるのが遅かったから、暗くなりかけて慌てて山を下りだした。
 案の定、不思議な沼池がある辺りまで下りて来ると、既に夜の帳がそこここにたむろし始めており、急な坂に気を配りながら下り始めると、急に雲が割れたのであろうか、夕べの太陽が最後の一条の光を木々の間からこちらへと投げて寄こした。
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 余りにも密生したためであろう、幾分かの木々が地元の人々によって透かれていたため、光の通りが良くなったのだ。 太陽が西へと急ぐために、夕べのまったりとした光に照らされて木々がまるでスローなインド舞踊を見るようにゆったりと踊っているように見える。 何という怪しくも艶めいた姿ではないか。 夏の盛りにはあんなに鳴いて止まなかった沼の牛蛙がどういう訳か今日は全く水音一つあげない。 静まりかえり、夕べの闇が辺りに居並ぶ中で、輝く木々の怪しい踊りだけが目の前に浮かんでいる不思議な光景に私の目は釘付けになり鳥肌だった。

【PS】 暗くなった池の端に一匹の猫がポツンと佇んで、池を所在なさげにただジッと見ている。
 呼んでみたが、チラッとこちらに一瞥をくれただけで、相変わらず端正にチョコンと座ったまま、ただぼんやりと池に目を遣っている。 魚でも捕まえるにしては、全くそのようなそぶりも見せないし、また、それにしてはもう既に暗くなりすぎているように思う。 かといって、この猫がなにかを思い詰めて自殺しそうにも、また思えない。 しかし、先程、こちらを向いた時にチラリと見せたもの悲しい瞳から、人である私には推し量ることが出来ないような哀しい出来事があったのであろうか、などとも考えた。
 ものも言わず、ただ押し黙って池を眺め続ける小さな姿が妙に愛おしく気に掛かるが、もういくら呼んでもこちらを振り向いてはくれなかった。
 少しずつ辺りから色が失せ始め、池畔に佇む小さな猫のまあるい背中もだんだんと闇の中へと溶けてゆく。 後ろ髪が引かれたのだけれど、にじり寄ってくる闇達に追い立てられるようにして、トボトボと一人、私は山道を下っていった。
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by usasho | 2007-09-15 23:50 | 自然
2007年 08月 02日

久しぶりに山に登った!

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 毎日目の前に山を見ながらも、年の性なのであろう、長い間体調を崩し、この3ヶ月ほど指をくわえて眺める日々が続いた。 かといって、別段今良くなったわけではないのだけれど、ほんの少し体調が整ったことを言い訳に、また、内が出かけている隙をぬって、これ幸いにと、家を脱走し、山へと出かけたのである。
 なんと心弾むことであろうか! 少々天気模様が芳しくはないものの、浮き立つ気持ちを静めながら、いつもの登山道に到着した。
 少し登り始めると、飢えた眼にいろいろな物が飛び込んでくる。 オオナナフシがいるかとおもえば、思わず吹き出しそうになる人面虫が足許から私を見上げている。
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 山道は人が通うから辛うじて道として残っている状態で、もし人が歩かなくなると、途端に草に道は飲み込まれ無くなってしまうに違いない。
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 日溜まりにはニホントカゲの成体やきんきら尻尾の幼体が夏の日を浴びている。
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 あえて手入れをしていない山道はまるで小さなジャングルのような風情があり、これを眺めながら、やはり脱走してまで登ってきたことの言い訳をしきりに見つけ出したりしている自分がおかしい。
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 水飲み地蔵のお堂の入り口に奇妙な生き物と覚しき物がうごめいていた。 うずくまって観察してみると、どうやらこれは生き物らしい! ゾウムシのような昆虫が蜘蛛の巣に引っ掛かったのだけれど、何とか脱走に成功し、いっぱい蜘蛛の糸を体に巻き付けながらもお堂の入り口まで辿り着いたのだった。(帰って調べたら、どうやらアシナガオニゾウムシのメスみたいである!) 彼女は死地からの無事な生還をお地蔵様に感謝するためにやって来たのであろうか! 聞けるものならば、彼女から奇跡の生還の顛末をばじっくりとお聞きしたいものである。 
 頂上付近ではもう夕刻が迫り始めたためであろう、ヒグラシが涼しげな声を立てている。 石に腰をかけ、水で喉を潤しながら、目を閉じて風のそよぎと生き物たちの声にしばし耳を傾けた。

 久しぶりにたっぷりと山を堪能したあと、恐る恐る家に辿り着けば、風呂が沸かれ、冷えたビールがニッコリと私を待っていてくれたのであった。

【PS】 山道を登っていると三人ずれの親子に出会った。 上の写真のようにすれ違うには少々狭かったので道を譲った。 先頭の男の子が帽子を取って「ありがとうございます!」と挨拶をした。 つぎの女の子も、父親も同じように挨拶をして下っていった。
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by usasho | 2007-08-02 22:40 | 自然
2007年 02月 12日

山がモコモコな理由

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 冬の里山が「山眠る」と言われるのは、木の葉が落ちて精彩を失い、まるで山全体が枯れてしまったかのように深く眠りこけたように見えることからそのような表現がなされたのであろう。

 しかし、日が当たる冬の里山を遠くから眺めていると、日溜まりの縁側でモコモコした猫が寝惚けて転がっているように見える。 一体、どうしてそのように見えるのだろうかと、また、つまらぬ事を考えながら山に登った。
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 答えは直ぐに思いついた。 葉が落ちると枝の間からまだ向こうが見える、日が差してくると遠くからも枝の先の向こうまで視界があるものだから、山肌が面ではなく奥行きのある広がりとして視覚されるため、遠くから見ているとモコモコとした山肌に見えるのであろう。
 冬の里山は日が差すと葉っぱが無い分だけ驚くほど明るい。 分っていても、時々、その明るさのためにビックリして見上げてしまうこともけっして珍しくない。

 こんな里山も、春が来ると少しずつ小さな葉っぱが吹き出し、そこかしこに花が咲きはじめ、遠くから見ていると、春風にそよぐモコモコと花が一緒になって、まるで山が笑っているように見えるのだ。

【PS】 十三峠への道を登っていると、山が少しずつ少しずつ荒れてきているのに気付く! この小さな信号をどのように伝えればよいのだろうか、と時々考え込むことがある。
 何故か昆虫の量と質が随分と変わってきたように思う。 もちろん、動物の生息数は確実にだ。 植物の生え方も時にあっという間に群落が消えてしまうことがある。 さらに、人が多く登ることで土壌の流出も確実に少しずつ続いていている。
 これらは些かばかりの地域に密着限定して考えると大きな間違いを起こすのではないだろうか。 しかし、全地球的規模で考えようとすれば、あまりの規模の大きさ故にかえって無気力に陥りやすい。 
 各地の大学や学校を始めとして里山への関心が少しずつ深められつつある。 地味ではあっても、今はここから始めることがやはり確実なのではなかるまいか。
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by usasho | 2007-02-12 19:42 | 自然
2006年 09月 20日

山からの便り

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 十三峠越えの道を登って行くと頂上付近に倒木が何年も前から道を塞いでいる。 我々はここを潜って登らないと峠へは出られないのだ。 この木は台風で倒れたままになっており、以来横倒しになったままこの山にもたれて年月を過ごしてきたのだ。 行政も人や集落に被害が無ければあるがままの姿を容認している。 ここを越えて登って行く人はこの山の自然の息吹を感じつつこの木を潜って行くのである。 
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 山は不思議なことだらけで、より不思議さが増えこそすれ、登るたびに飽きるということを感じたことは一度もない。 もう何度登ったか知れず、また、何度もそこを見ているのに気が付かなかったことがいっぱいある。 この板根(ばんこん)もその一つである。 熱帯では根を深く下ろすことができないため、根が幹を支えるために板状の板根を形成して木を支えるのだそうだ。 ここは熱帯ではないが、この板根はもしかすると、この木の下の土壌が非常に薄く、深くないところに岩が迫っているのかも知れない。
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 頂上付近にまで行くとこのような岩石の路頭が見られる。 しかし、良く見ると、無数の縦に走るひび割れがどれにも走っていることに気付く。 この岩は巨大な地下のエネルギーが暴走することによってこのような縦のひび割れが一律に生じたのである。 一見穏やかなこの生駒山地も、このような徴を探して行くと過去に極めて大きな地殻変動の上に大阪側からみて奈良側が持ち上がったこと、その時に岩石が巨大な運動エネルギーを受け、破砕されたのだと言うことを眺めていると、自然の表現しようのないくらいの大きな姿に立ち止まってしまうのだ。

【PS】 帰り道いつもコノハズクが止まっていると足取りが軽くなる。 今日は拙宅の娘の上を羽を広げて飛んで見せたと興奮していた。 彼等狩人の勇姿を一度見ると人は思わず興奮してしまうものだ。
 そうそう、山ではもう彼岸花が咲いていました。 秋、早いんですねェ!
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by usasho | 2006-09-20 22:13 | 自然
2006年 09月 19日

山に登ると

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 今日は三題噺といきましょうか。
 犬も歩けば棒に当たると申しますが、人も山に登るといろんなものに出会います。 この頃では山賊にお目にかかるというようなことはマア無くなったと思うのですが(アウトドアをやっていて一番恐いのは人間です。 ? これホント!)、多くの地方で熊との出会いが様々な話題を呼んでいます。 小生の住む大阪、八尾あたりではさすが熊はもういなくなってしまってから久しいのですが(しかし近頃では町中で始末の悪い虎共が車を運転しては大暴れし、物議を醸しているようですが)、野生の狸さんはそれなりに結構頑張ってくれているし、イノブタもまだ藪に隠れ住んでいるようです。 夕方、人気の無くなった薄暗い山道を歩いていると、周りの藪に何かがいると感じることがあります。 気配だけではなく、カサコソと足音がするので何かがこちらを見ているのでしょう。 コッソリと見られていると妙に照れ臭くなるのですが、恥ずかしがり屋さん達は一向に姿を見せてくれません(たまに猫だったりしますが)。 でも土手の上のうす暗い藪の中から何かに見られているのは別の意味で安堵します。 彼等は決して私を襲ったりはしないのですが、何かしら興味があるのでしょうね。 そんなときは「きょうも有り難うね!」といって手を振ってやります。 そうすると彼等もそれ以上付いて来なくなるのです。
 写真とどういう関係があるのって? 別になにも関係はないのですョ。 夕べが迫りつつある木の穴で、夜の出番を今か今かと待っているウスバカミキリです。 動物の写真がなかったのでチョイ代役をお願いしましたのです、ハィ。
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 このように書いていると、山の中はまるでおとぎ話の世界のように感じてしまいますが、ドッコイ、本当は生きてゆくことに掛け値無しでガップリ四つに取り組んだ真面目この上ない世界のみが拡がる、命の坩堝のみがめらめらと音を立てて煮えたぎっている世界なのです。
 写真ではヨツボシモンシデムシが自らの命のを繋ぐために幼虫のための寝床となる少々干涸らびた蛙を蠅と取りあいっこしています。 小さな体でビックリするような大きな荷物を二匹で持ち上げては気に入ったところまでグイグイと持ち去ろうと奮闘しているのです。 宮崎学氏がいわれるように、生きるものに等しく訪れる死は別の生き物の命を支え、大きな命の営みの輪を回すことで一段と大きな命が支えられていることを知ることが大事なのです。
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 ところで、山を彷徨っていると、こんなものにも出会います。 何でしょうか、何の幼虫なのでしょう。 気前の良い樹液を出すので目を付けていた木の根本にある小さな樹液が出る穴を覗いていると、シズシズとこの幼虫が足早に通りすぎていったのです。 エッっと思って写真を撮るのに精一杯で、捕まえる前に別の穴に潜ってしまい、手がかりはこの写真のみとなりました。 本当に、山っていつ行ってもやはり面白いことにいっぱい出会えるのですね!

【PS】 最後の幼虫の写真、凄い色と形でしょう! でも、思わず感動してしまいました。 音もなくシズシズと歩む6~7センチ位の大きさの堂々たるこの幼虫は、一体どんな成虫になるのだろうか???  御存知の方はどなたかお教え下さいマセ。
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by usasho | 2006-09-19 22:03 | 自然
2006年 09月 18日

山に登れば

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 今日は少し綺麗に決めてみよう!
 十三峠越えの道を登り、靖子ちゃん公園【注:拙宅の長女が生まれた時にはまだ十分な整備ができていなかった水呑園地に拙宅では名前が振られていなかったのを幸いに勝手にこのような身内の名前を冠して命名してしまったのだ!】に着くと、今年も綺麗なススキの穂が風になびいていた。 以前にはもう一叢あったのであるが、今は残念なことにこの一叢になってしまった。 中秋の名月にはさぞかしこの山の狸さん達がこの園地で腹鼓を打って一夜の宴に打ち興じることであろう。 どうか、この最後の一叢が長くこの山の頂で栄えますように!
 園地にはもう秋の草が一斉に起ち上がり、誰もいなくなった広場では猫じゃらしの穂が風に揺れて、秋の虫共がもう既に鳴き始めていた。

【PS】 今日は台風が日本海側を北上しているため朝から風が結構きつい。 だからといって山に登る人がいないわけではなく、それなりに結構人は登る。 ツクツクボウシが最後のコーラスに血道を上げている。 空には何故か烏の大群(30羽くらい)がまだ明かりがたっぷり残っている夕べの空を優しい声をたてて舞っている。 もう誰も登ってこない夕べの頂上のポツンとしたベンチに一人で腰掛けて、夕暮れの風に吹かれてゆらゆらと風に身を任せている木々や草を眺めていると、ずっとこのまま夜になるまで座っていたくなったけれど、そうもゆかず、渋々膝を叩いて頂上を後にした。 もう人っ子一人いない薄暗い山道を慣れているとはいえ一人でトボトボと歩いていると、「お一人では寂しいでしょう!」と狸さんなどがお供しましょうなどと言って出てきはしないかと期待に胸をふくらませたが、とうとう猫の子一匹現れず、山裾の村の明かりが見えてしまった。
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by usasho | 2006-09-18 22:25 | 自然
2006年 09月 12日

コノハズクの小枝

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 大変見にくい写真で申し訳ないのであるが、中央の木の上の黒い固まりはコノハズクという小型のフクロウです。
 明るく映っておりますが、本当は結構薄暗い中で、しかも豆粒くらいの大きさから引き延ばしたたのと、おまけに手ぶれを起こしているため見づらくなっています。 お許しあれ!

 昨日、帰りにいつもの枝に、あのフクロウを発見した。 じつは、いつ帰ってくるのかと毎日欠かさず私はあの枝を見続けていたのだった。
 思わず小躍りしたくなる私をなだめて、この小さな旅人達があの枝に無事な姿を見せてくれた喜びに浸った。 なぜか今年は彼等の帰りを待ち侘びたためか、いい知れない懐かしさがこみ上げてくる。
 この数年来、ここ八尾(大阪府)の山本でこのコノハズクという小型のフクロウが三羽飛来するようになりました。 ずんぐりアタマの、しかし、鋭い眼のこの鳥はグッと真横に羽を広げてほんの真上を滑空するとその大きさと狩人としての勇姿に思わず心が躍ります。
 なによりも、あの枝のあの位置がいつものお気に入りの定位置であるのが不思議です。 また、時々鳴くと本当にニッコリしてしまいます。
 今年も君たちに会えて本当にうれしい。

【PS】 近況報告:体調を崩したのと、物書きに耽っていたので、ブログへの書き込みがしばらくできませんでした。
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by usasho | 2006-09-12 22:21 | 自然
2006年 08月 01日

走る夕焼け

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 空が真っ赤に染まるといつも思い出すことがある。 名著『古寺巡礼』で土門拳氏が宇治の平等院を撮影に行かれた折、帰りがけに思いもかけない美しい夕焼けが鳳凰堂の屋根に懸かっていたのを発見され、慌てて撮影体制を組まれた時、準備に手間取る中で空を睨んでいると、まるで空が走っているようだったというようなことを述べられた。 夕日を見ていると先生が本当にそう思われたことをいつも追体験してしまう。 光と光景が激しく千変万化していっても空が走るのはやはり朝ではなく夕方であろう。 十三峠によく昼過ぎから登るのは、やはり帰りの空が茜に染まるのを見ながら下るのが大変楽しいからだ。
 今日は珍しく美しい夕焼けが現れた。 少し帰りが遅くなったために家路の途中で茜雲が陰りだし、住宅地の中ではなく空き地の草原のところで夕焼けを見たくなったため、少し急いでどうにかこうにかやっと原っぱにたどり着いた。 暗いためにフラッシュで不自然に光っているが、この原っぱにはいっぱいの猫じゃらしが夕べの涼風で気ままに揺すぶられており、本当に見ていると心を和ませるものがあった。
 それにしても土門先生にお会いでき、その魂に触れることができたことは決して忘れることのできない思い出である。 多くの書物には先生の恐い顔の写真が多いのだが、お会いできた折のあの満面の笑顔は生涯忘れることができないもので、一瞬にして大人物の魂に触れた時の心の鼓動を今でも思い出すことができる。
 まだの方はぜひ『古寺巡礼』の宇治平等院の写真をご覧ください!

【PS】 昨日は玉串川の近くでヒグラシが鳴いていた。 立ち止まって声に聞き惚れていると、何を勘違いしたのか川の鯉が口を開けてバシャバシャと近寄ってきたため、せっかくの涼しげな蝉の声と共に現実の世界に引き戻されてしまった。
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by usasho | 2006-08-01 23:46 | 自然
2006年 07月 21日

自然の掟

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 朝いつもの川沿いの道で脱皮している最中の蝉を見付けた。 7時前ではあったが、少し遅いではないかと近寄ってみると動く気配がない。 昨夜は大阪も連日の豪雨の続きで一晩中激しい雨が降っており、朝方あがったものの予断を許さぬ情勢であった。 ヒョッとするとこの蝉は不運にも昨夜の激しい雨に打たれて遂に力尽きたのではなかるまいか、と思った。 ただ、時間がなかったので後ろ髪を引かれる思いで朝はその場を離れた。 夕方となり急ぎ家路につき、どうだろうかと思い覗いてみると、やはり推察どうりらしい。
 生き物には常に死が待っている。 宮崎学氏の秀逸な作品を見れば理解できるように、死とはこの地上に生きるものにとって避けることのできないものであるだけではなく、この地上においては本当に必要な現象でもあるのだ。 彼の言う「環境の輪」の上に成り立っているこの地上の掟は生きとし生けるもの総てに平等に訪れる出会いだ。 夕方には蝉の亡骸にまず蟻が挨拶に訪れていた。 このようにして蝉は少しずつ土に帰されてゆくのである。
 地上の掟は生きるもの総てに平等にその愛を注ぐのだ。

【PS】 前から観察している木に留まって死んだままの蝉は今日も相変わらず留まり続けている。 死んでもなお留まり続けている蝉もいれば、土から出て直ぐに力尽きた蝉もいる。 改めて地上の掟というものを考えた。
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by usasho | 2006-07-21 19:57 | 自然
2006年 07月 15日

今年初めてクマゼミを見たョ!

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 昨夜帰宅時に玉串川に沿って歩いていると、何故か深閑とした中でニイニイゼミがたった一匹だけ激しく鳴き声を上げていた。 静かな夜にたった一匹だけ鳴かれるとういうのもいささか夏らしくなく寂しいなと思いながら家路についた。
 今朝、図書館へ行くのに川沿を歩きながら、フト見上げるとクマゼミの真新しい抜け殻があるではないか! 
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 さらに数歩歩いたところでクマゼミが静かに木に休らっている。 見るからに生まれたてと言わんばかりの凛と輝く羽根を静かにたたんで桜の木に留まっている。 やっと夏が来たぞ! そう思うと、先ほどから噴き出していた汗も吹き飛ぶくらいうれしくなった。

【PS】 京都は夕方激しい夕立に見舞われた。 図書館からの帰り、雷はさほど激しくはなかったものの、甍を揺るがすような激しい雨が視界を奪う中、お寺の門を借りて雨宿りした。
 今日は祇園祭(宵宵山)だから内外の観光客が町に溢れ、国際色豊かな雨宿りになった。
 ただ、何も考えず、ボーッと雨を見て立っているこの風流な時間は実に楽しいものだった。
 走り惑う人々、屋根から飛び散る水しぶき、雨宿りに入ってくる人々の国際色豊かな会話、互いに気遣う浴衣の裾、雨に濡れた下駄の感触をおもしろがる若者達、時折走る稲妻に激しさを増す雨で霞む京の街はうずくまるようにそこに佇む。
 小降りになりかけると、一人、または一組と人が去ってゆく。 夕暮れの中、いっとき見知らぬ者同士が肩を寄せ合って、またそれぞれが思い思いに去ってゆくこの時の流れの面白さは、ここが京都であるが故に、なお一層豊かな、そして、いとおしく流れる時というものを感じさせる。
 何年ぶりかで味わった京都の夕立は、昔と少しも変わらず、そこにいるだけで降った雨が潮の如く豊かに、しかし静かにたっぷりと心を満たしてくれた。
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by usasho | 2006-07-15 22:24 | 自然