『犬も歩けば棒に当たる』 ~辺りを見回してみよう!面白いことがいっぱいあるぞ!~

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カテゴリ:邂逅( 2 )


2007年 01月 02日

さよならYS11 ―YS11の思い出―

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 先日所用があり、久しぶりに飛行機に乗った。 羽田についてブラブラと歩いていると、とあるウインドウの中に飛行機のミニチュアがたくさん並んでいる。
 私の目はある飛行機の影を追いかけたが、それは直ぐに見つかった。
 YS11は我々の世代には実に懐かしい響きを持って思い出される飛行機である。 昨年のある時期から様々な雑誌にYSの最終飛行についての記事を本屋で目にしていた。 そして、その日がやってきて、なにがしかの記事やニュースが最後のフライトのあったことを我々に告げていたが、深く読みたいと思ったり見たいとは思わなかった。

 思えばYSにはいろいろと深い思い出がつまっている。 先生と出かけた時の思いでや、一人で調査に出かけたときのくさぐさの懐かしい事共がYSの翼で力強く廻るターボプロップエンジンの音とともに懐かしく思い出される。 そうだ、一緒に乗った親父がエンジンの音に負けまいと身振り手振りを交えて大声でどなっていた。 地方空港で帰りに乗り遅れそうになりながら、滑り込む空港の向こうにもう待ちかまえているYSを見てタクシーの中で何度も何度も手を握りしめたこと等、本当に思い出は尽きない。

 しかし、いまや、模型としてガラスケースの中にチョコンと置かれているYSを見ると、懐かしさだけではなく一抹の寂しさもやはり禁じ得ない。
 しかし、目を閉じれば今でもロールスロイス製のエンジンが主翼の上でうなりを立ててながらYSが優雅に上昇し、そしてたおやかに旋回して視界から消えてゆく様を今でも瞼の奥で読み取ることが出来る。
 現在のジャンボやエアバスではとうてい味わうことの出来ない空の旅の思い出に一人耽りながら、私は都心への切符を買い求め、足早に改札をくぐった。
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【PS】 まだ今のようにテロやハイジャックが話題にならなかった頃、初めて乗ったジャンボのコックピットを飛行中に見せてもらうことが出来ました。 今からみれば考えられないようなことでしたが、何故か優しい(美人の)スチュワーデスのお目にとまって思わぬ見学が叶いました。 コックピットに座っている機長以下3人の親切な案内で中を覗かせてもらいましたが、今と違いアナログの計器が天井までびっしりと貼り付けられており、よくまあこのようなものを見ながら間違えずに飛べるものだとただただ感心いたしました。
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by usasho | 2007-01-02 17:01 | 邂逅
2006年 08月 14日

四十余年ぶりの邂逅

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 昨日、京都の内の実家へ法事に出かけた。 法要も無事終え、積もる四方山話の後、内と嵯峨野の大覚寺へ出かけることにした。 四十余年ぶりに“あの兎たち”に会うためにである。
 ほどなく、雷こそ鳴らなかったものの、天地の間に雨音を轟かせて篠突くような激しい夕立が辺りを包み込んだ。
 半時程暴れ回った雨雲は、気が済んだとみえて、カラッと一気に余分な雲を払い、夏の青空に涼風を添えて呼び戻すと、昔と少しも変わないやりかたで三つ指を突いてどこかへ消えていってしまった。 今までの天気がまるで嘘のように思えるようなこの京の夕立の作法は、味わった者にしか分からない不思議な魔力をもって京の夏をその魂に刻み込むのだ。
 大覚寺には四時過ぎにやっと着いた。 四十年という時をもものともせず、私の記憶は何の迷いもなく真っ直ぐに玄関から古い友達のいる廊下へと私を連れ導いた。 四十年たっても彼等は相変わらず板の上でくつろぎながらのんびりと時を過ごしている。 彼等にとってはもう既に三百年以上この板の上で飛び跳ねたり、寝ころんだりしていたので、私が懐かしむ四十年はほんの一時にしか過ぎないのだろう。
 久しぶりの邂逅は瞬時にして心の中の時の堰を打ち砕き、溝を跡形もなく掻き消してしまった。
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 私は高校の授業に辟易していた。 かなりの無茶な抵抗は大きなリスクを後々まで引き摺ることになる。 当時同級生が受験勉強に目の色を変えているのを尻目に、私は自らを試すためにいま一つの無茶を始めかけていた。 京都大学の親学会へ提出する論文「日本的美意識について」(原稿も同稿を掲載してくれた雑誌も今は失ってしまったが、論題はこのようなものだったはずだ)を書くために京都へ日参し始めたのだ。 とりわけこの嵯峨へはほとんど毎日のように通い、足が動かなくなるまでひがな一日ただひたすらあたりをさまよい続けた。
 そんなある日、私は初めてこの兎たちに出会った。 というより、この兎たちに出会い語らうことで、論稿を少しずつ組み立てて行くことができるようになり、長く苦しいトンネルを抜けるためには、どうしても辿らねばならない心の呪縛を解くための糸口のありかをも、また彼等から教えられた。
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 兎たちは昔会ったときよりも一層のんびりと楽しげにふるまっていた。 四十年余を経た彼等との邂逅は一気に時の垣根を蒸発させてしまい、時間の観念が故障し、そこに板があることさえも意識できなくなってしまった。
 夕立の後、雲一つ無く晴れ渡った空の下、吹き渡る涼風の中で内と共に波一つ無い鏡のような大沢の池とそれに続く緑滴る山々を眺めていると、あの草のむせかえる暑さの中を何ものかに憑かれ、何かから逃れるようにただただ歩きさまよいつつ拭った汗の記憶がまるでつい先程であるかのように手に蘇り、さまざまな思い出が透き通った涼風と一緒になって、身動ぎもせず池を眺めて佇み続ける我々を包むように優しくそしてゆるやかに吹き渡り、空になった心の中を撫でて慈しんだ。

【PS】 しかし、実に家が建て込んだものだ。 かつての嵯峨野の風情は私の記憶の中にしか見いだせなかった。 ただ、克明に焼き付いた記憶は驚くほど正確に元の姿を幻のごとく呼び起こすことができたため、決して道に迷うことはなかった(しかし、不思議なことに、昔よく迷ったところは四十年経ってもまた迷ってしまった)。

 様相を大きく変えたとはいえ、四十年ぶりの嵯峨野も昔と同じくらい優しかった。 私の目の前、数メートル先をノートと鞄を抱えたおかしな学生がキョロキョロとあたりを見回しながら歩き回っている姿が、目の前の有様と昔の景色との間にだぶり、今の世界と私の記憶の世界との間を彼が絶え間なく往還するのだった。 彼の足許には兎たちが道案内をするために時々振り返りながら駆け回わっていた。

【PS2】 渡辺始興筆の「野兎図」についての筆者の雑感は、筆者のほかのサイト の該当の箇所をご覧下さい。
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by usasho | 2006-08-14 10:49 | 邂逅