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『犬も歩けば棒に当たる』 ~辺りを見回してみよう!面白いことがいっぱいあるぞ!~

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2008年 04月 12日

山笑い、川歌う春

 バタバタしている内にあっという間にもう(?)4月だって!
 別にボーとしていた訳じゃないんですよ! でもね、正月以来、写真以外の更新ができなかったので、改めてここに書き込んでいると、無性に気恥ずかしさがムクムクと膨らんでくるんです。
 先般アメリカの渡辺千賀さんが4月7日のサイトで“lower-stress bloggers”という話をされてましたよね! 私なぞはさぞかし脳天気な“lowest-stress bloggers”の最たるものでしょう! (*^_^*)! 本当に贅沢の極みです!(オイ、オイ!変な自慢をせずに、正直に“私の我儘で”と書けョ!←天の声)
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 それにしても、今年位、春がビシッと決まった年はなかったよね! 私のようなものぐさでもいそいそと夜櫻を見に出かけ、山里へと春を見付けに飛んで行ったんだから!
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 本当に普段見慣れた景色も、そこにただ花を添えるだけで、この世ならざる世界へと昇華してゆく。
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 山の上からも花が窓となって別の下界が向こうに見えてくる。
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 げに、山は花霞を得て笑い出し、
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 川は花を得て歌い始め、見渡す限り神が懸かり、神名備た世界がひととき降臨するが、花片が納めの舞を奉納し始めると、少しずつこの世が戻ってくる。
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 額の汗を拭いながら山道を登り、ふと足を止めて振り返った時、目の当たりに咲き誇る櫻主が刹那をおかず我が魂と融け合うのを覚えた! そして、今日のこの日に、生きてこの花と出会えたことへの言い知れぬ喜びと、そよ風の中をたゆたう花弁への言葉には成らない切なさとが、潮のごとくぶつかっては押し寄せ、引いてはまた押し寄せて、柔らかな春の日差しのもと、佇み尽くす私をただただ溺れさすのだ!
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『尋常小学読本唱歌』
春が来た (作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一)
   一
     春が来た 春が来た どこに来た
     山に来た 里に来た 野にも来た
   二
     花が咲く 花が咲く どこに咲く
     山に咲く 里に咲く 野にも咲く  
   三
     鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く
     山で鳴く 里で鳴く 野でも鳴く

# by usasho | 2008-04-12 23:23 | 身の回りの世界から
2008年 01月 01日

新年を迎えて

 新年明けましておめでとうございます。
   本年も宜しくお願い申し上げます。

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 新玉の年を迎え、家族集いて杯をあげ、雑煮を食す。
  昼過ぎ、昨日買い求めし菊屋の葩餅(はなびら餅、或いは花弁餅)を頂き、内が点てし茶を、家族で心静かに代わる代わる味わった。

 菊屋の葩餅(私はこの漢字が花弁餅と書くよりも好きだ)を正月に味わうのは本当に久しぶりである。
 今は亡き両親がことのほか愛で、また、私もそこかしこの名だたる菓子舗が丹誠込めた様々な葩餅を頂いてはみたが、この菊屋の葩餅を抜くものには未だにお目にかかったことがない。
 関西の和菓子職人にとって、この葩餅は特別な位置を持つ。 式三番の翁のごとく、文字通り新玉の年の初めに口に入れて身を引き締め、味わいつつこの一年を共に言祝ぐに相応しいものである。

 晴れ着をまとい、己に向き合って気持ちを引き締める。
 心静かに葩餅に黒文字を入れ、愛用の茶碗にて茶を点てて味わい、心ばかりの正月というものを祝った。

 事情があり、一日早いのであるが、これが拙宅の本年の出陣式であった。
【PS】
 昨年後半は、年末をのぞいて体調はまあまあであった(年末に背中の腱がブチッという音と共に切れ、そのあげく腰痛をも併発し、這うような毎日をいまだに送っている)が、時間と機会がある限り図書館と研究会へせっせと顔を出したため、ブログから頭が遠のいてしまった。 不悪。
 今年は面白いことが出来るといいな、と思いながら新年を迎えたのであるが、なにやらそこはかと頭痛がし、微熱を感じるのは、どこぞで無粋なウイルスに惚れられてしまったからであろうか?

# by usasho | 2008-01-01 16:17 | 随想
2007年 11月 10日

久し振りに山に登る

 異常な季節のせいもあったのであろう、この頃多少無理をしたために体調を崩してしまった。
 そのため、今日と明日の東京でのシンポジュームに出かける予定は泣く泣く取り止めになってしまった。 そのせいなのであろう、朝からどうも気持ちが落ち着かず、おまけに家族がみな出かけてしまったために止める者がいなかったので、もう夕方が近づいているのにもかかわらず、山用に服装を改め、まるで何かに導かれるように私は山へと向かった。
 少し曇りがちなせいもあって、山にとりつくころにはもう辺りは既に薄暗く、今から登る人なぞまあ有るまいと思われたし、時間を考えれば登山の常識からは大きく逸脱していることも重々承知はしていたので、多少のためらいが無くもなかったが、まるで取り憑かれたように足は薄暗い山道をただひたすら登り始めていた。

 まだ木の葉が十分に散っていなかったので、葉が茂っているところでは既にもうそこここに夜が佇みはじめていた。 それでも、まだ足は引き返すことを忘れたまま上へ上へと登り続ける。 
 しかし、やはり体調が良くなかったからであろう。 息が次第に荒くなり、汗が激しく流れ、まるでこれが人生最後の山登りであるかの如く体が波打ちだした。 いまだ、この様な経験をしたことのないような苦しさに襲われつつも、やっとのことで、“いつも曲がり角”までやって来ると、崖に奇麗な野菊が寄り添うように咲いてこちらを向いているのが目に留まった。 しばらくそこに佇んで息を整えながら、薄暗闇にポッと浮かぶ白や、黄色のその可憐な花を眺めていると、妙に気持ちが安らいで、何故か急にここから帰ろうという気になった。

 下りは森の中が本当に暗く歩き辛くなっていた。 川が流れているところでは道の両側は既に真っ暗で全く何も識別できないようになっていたが、見上げれば空は辛うじて木の間隠れにうっすらと今日最後の明かりが残っていた。 それでも懐中電灯など点けなくても慣れた道でもあったし、別段怖いとも思わなかったので、川のせせらぎの音を聞きながら真っ暗な中を時々足を滑らせながらも転ぶことなく、ただ黙々と麓を目指して下った。
 そう言えば昔、信州の山奥の学生村で星明かりの下、真っ暗な夜道を棒切れで崖を突きながら歩いたことがあった。 道の2メートル程右には深い崖があり、何年か前この村の校長が落ちて亡くなったことを村の人から聞いてはいたが、さほど気にもせず棒切れでコツンコツンと左の崖を叩きながら満天の星空を愛でつつ小一時間程かかって自分の下宿先まで帰ったのだった。 この時以来、真っ暗な夜道も特別に気にならなくなっていたのだ。

 やっと里に着くと、視界が開けたからであろう、やはりまだ空には明るさが残っていたが、たっぷりと雲が空を覆っていたので夕焼けは無く、夜の帳が将に辺りを包もうとしていた。
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 村はずれを歩いていると、刈り取った藁を焚いているのであろう、白い煙が山里に棚引いている。 何故か時を忘れてしまいそうになるような原日本的な光景に寒さの増してきた風に吹かれながらも思わず立ちつくして見とれてしまった。
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 辻の地蔵堂に着いた。 こんなに暗くなってからこの前を通ったことがなかったので、不思議な光景に見とれてしまい、思わず1枚だけ写真を撮った。
  【PS】この写真にはちょっとした追加の話がある。
 この後、一足毎に夜が立ち籠めて、あっと言う間に辺りは夜に飲み込まれてしまった。

【PS】 なぜか里に近くなって暗い森の中を何処かで一羽のウグイスが鳴いているのに気がついた。 秋も深まってきたというのにウグイスとはどういうことだ。 しかも、こんなに暗くなっているのでなおさら不思議に思った。 家を出た時、近くの木の頂で百舌鳥がけたたましく鳴いていたのを聞き、秋だなあと思ったから尚のことそのように考えたのかも知れない。
 何枚か山で写真を撮ったが、どれもこれも暗く、これらに編集を加えるとあまりにも不自然な色になってしまうので山での写真は今回公表できるものはなかった。 それにしても、崖に咲く野菊は薄明かりの中ではあったが本当に可憐で美しかった。 いや、薄明かりであったからこそ、その美しさが際だち、それに打たれたのかも知れない。

# by usasho | 2007-11-10 23:09 | 日記
2007年 09月 19日

ワクワクするような時を追いかけて

 出かける前に好奇心さえポケットに入れ忘れなかったならば、ワクワクするような面白い出来事にいっぱい出会うことができる。
 好奇心に手を引っ張られ、背筋をピーンと伸ばして街や野山を歩こう。 いろんなものが周辺からいっぱい声を掛けてくる。 今まで見たことのないものから、見ていても気が付かなかったことまで、見渡せば面白いものや、何だろうと思うものがいっぱい周りから駆け寄ってくるのだ。
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 東大寺の大仏殿に女の子達がやって来た。 思い思いの服装をしてあっちを見たり、こっちに集まったりとキョロキョロうろうろしながら、本当に楽しくてたまらないようだ。 そんな楽しそうな彼女たちのさんざめきがフッと止まった瞬間、彼女たちは門に並んで一斉に写真を撮りだした。 みんなでピーンと背筋を伸ばし、デジカメを構えた彼女たちの後姿にはそれを見ている者まで浮き浮きさせてくれる何ものかがある。 きっと、今朝から面白いものがいっぱい見つかったのだろう、みんなの目がクリクリと輝き、言葉までが辺りを走り回っている。 この楽しい青春の一齣に幸よ多かれ!
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 今日はとってもよい天気で、少し動くと汗が噴き出してくる。 この門に立っているとまるで極楽から風が通って来ているようで本当に涼しく、少し長居して心地よい極楽の風を楽しんだ。
 この大仏殿の門前を守護する阿吽の像のうち吽形像は足下に天女を踏みつける兜跋毘沙門天である。 多くの仁王像はその足下に邪鬼の像を踏み敷くが、この像だけは清浄無垢な天女様を踏みつけているために、多くの人々はその意外性と、天女様への同情心が合体してこの毘沙門様の前にしゃがみこみ、その足下を覗き込むことになる。 さっきの子等がここでもしゃがみ込んで柵の中を覗き込み、毘沙門様のことはそっちのけで、もっぱら足下の気の毒な天女様だけが彼女達の話題をすっかり独り占めしてしまった。 後ろから拝見していると、「こりゃ!何をゴジャゴジャ言うておるのじゃ、主役はこのワシじゃゾ!ワシ!私の方を見んか!」とばかり眦をつり上げて下を睨み付ける毘沙門様が妙にいたわしく、かついじらしくも見えてくる。
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 帰りに南大門を通ると修学旅行の生徒がワアワアと門の真下に集まってきた。 案内のガイドが声を嗄らしてハンドマイクから身振り手振りで得意の歴史解説を一席ぶっているが、生徒の方はといえば、お構いなしにキョロキョロと近くを飛び回り、それぞれが既にもう面白いものを探し出していた。 何十年か前にこんなこともあったっけ、と思うと無性に懐かしく、一時を彼らとご一緒させていただいた。 Vサインを出す反った指がこの子達の今日の楽しさを十分に伝えてくれる。 楽しい思い出をいっぱい創ってお帰り!とつぶやきながら、ちょっと迷惑そうな顔をして振り返る鹿達の頭を撫で撫で興福寺の方へと向かった。
 歩いていると、野を渡る風に乗って、鹿達のいつものニオイがプンとした。

【PS】 奈良に行くと一度は鹿煎餅をやってみたくなる。 煎餅売りのおばさん(昔から煎餅売りはおばさんが多い)から煎餅を受け取ると、それまで知らん振りをしていた鹿が途端に津波のように押し寄せてくる。 頭突きはする、舐め回す、足で脅す、体当たりするなど、あらゆる手段を尽くして彼等は煎餅を強奪しにやってくるのだ。
 ある人が言うには、鹿はきっと所有権というものを理解しているというのだ。 おばさんの煎餅入れに煎餅が入っている間は絶対に手出しが出来ないが、観光客がお金を払って煎餅を受け取るとおばさんから煎餅の所有権が移動して鹿が取っても良いものに変わるということを彼等はきっと理解しているにちがいない、というのだ。 だから、客が煎餅を買うまでは知らん振りをしていても、金を払った瞬間に、否、財布を持ち上げた瞬間に彼等は一斉に反応するのだそうだ。
 鹿は一体どこで経済学や法学を習ったのか知らないが、正鵠を得てはいないものの、その解釈の面白さに聞いていて思わず笑ってしまった。

# by usasho | 2007-09-19 23:50 | 大切なもの
2007年 09月 15日

木々の踊り

 十三峠へ登る道には何カ所か木々が生い茂って昼なお暗い処がある。 それでも夏にはまだ7時前であれば何とか歩いて歩けないことは無いのだけれど、さすが9月も半ばを過ぎる頃には急に日が短くなり、5時でも多少足許が覚束ないことがある。 ましてや、現在、台風が東シナ海を北上中のため、今朝から雲が走って頃合いがつかめず、ぐずぐずと決めかねていたために今日は登り始めるのが遅かったから、暗くなりかけて慌てて山を下りだした。
 案の定、不思議な沼池がある辺りまで下りて来ると、既に夜の帳がそこここにたむろし始めており、急な坂に気を配りながら下り始めると、急に雲が割れたのであろうか、夕べの太陽が最後の一条の光を木々の間からこちらへと投げて寄こした。
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 余りにも密生したためであろう、幾分かの木々が地元の人々によって透かれていたため、光の通りが良くなったのだ。 太陽が西へと急ぐために、夕べのまったりとした光に照らされて木々がまるでスローなインド舞踊を見るようにゆったりと踊っているように見える。 何という怪しくも艶めいた姿ではないか。 夏の盛りにはあんなに鳴いて止まなかった沼の牛蛙がどういう訳か今日は全く水音一つあげない。 静まりかえり、夕べの闇が辺りに居並ぶ中で、輝く木々の怪しい踊りだけが目の前に浮かんでいる不思議な光景に私の目は釘付けになり鳥肌だった。

【PS】 暗くなった池の端に一匹の猫がポツンと佇んで、池を所在なさげにただジッと見ている。
 呼んでみたが、チラッとこちらに一瞥をくれただけで、相変わらず端正にチョコンと座ったまま、ただぼんやりと池に目を遣っている。 魚でも捕まえるにしては、全くそのようなそぶりも見せないし、また、それにしてはもう既に暗くなりすぎているように思う。 かといって、この猫がなにかを思い詰めて自殺しそうにも、また思えない。 しかし、先程、こちらを向いた時にチラリと見せたもの悲しい瞳から、人である私には推し量ることが出来ないような哀しい出来事があったのであろうか、などとも考えた。
 ものも言わず、ただ押し黙って池を眺め続ける小さな姿が妙に愛おしく気に掛かるが、もういくら呼んでもこちらを振り向いてはくれなかった。
 少しずつ辺りから色が失せ始め、池畔に佇む小さな猫のまあるい背中もだんだんと闇の中へと溶けてゆく。 後ろ髪が引かれたのだけれど、にじり寄ってくる闇達に追い立てられるようにして、トボトボと一人、私は山道を下っていった。

# by usasho | 2007-09-15 23:50 | 自然